2つの美容外科学会に20年以上ほぼ毎回参加した…(会員名簿)
右上画像は私の愛読書だったとも言えた日本形成外科学会の会員名簿(1988年版)です。今と違って個人情報が満載で、あの先生はどの大学を何年度に卒業しどこの医局出身というのが明記され、自宅の住所・電話番号まで載っている状態でした。そして当時、形成外科九州地方会やJSAPSの学会で『これは!』と思える発表している先生はこの名簿と照らし合わせラインマーカーを引き憶えていた次第です。
JSAS(十仁系)の美容外科学会の場合も同様に照らし合わせていましたが、会員名簿に名が載っていたり、載っていなかったりという状況でした。また画像右上は巻末に載った形成外科認定医一覧です。これは後年の名簿の記載と異なり、昭和53年から認定年度順に載っていました。右下茶褐色の色の部分は日本形成外科学会事務局にお願いしFAXで送って頂いた1988年以降に認定施設になった病院名を貼り付けていたものです。
さて、これを踏まえ一昨日の美容外科学会で発言しました事は下記です。
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①私が進路を決める昭和61年当時は形成外科のトレーニングを受けて美容外科で開業していた医師の方が少なかった。産婦人科出身(根岸、鴛海、船津、安見・・・)でさえ多かった。
②昭和50年代半ば迄に認定にされた形成外科認定医は形成外科医指導の元での研修が4年未満は実は少なくない。ゼロでさえ多くいる(つまり我流)。
③平成になり各大学医局長に形成転科の相談をすれば「何科を何年やろうと実力的には3年目、医局員としては1年目扱いだから、オペ患者をストレッチャーで運ぶ事など、医局1年生として謙虚に振る舞う事。何?美容は入局10年はさせない。」←こんな感じであり、嘗て昭和51年転科・翌年形成外科講師などがあった時代とは違っていたと悟った。
④名簿記載以外に後年に認定施設になった病院も含め、全国の病院を調べたが、形成外科認定施設は殆ど大学の傘下だった。つまり個人がフリーで勤められず大学医局入局しないと無理か。これでは徳洲会病院(湘南鎌倉・茅ヶ崎)的に最初からバリバリやれる望みは薄い。整形外科ではフリーで勤められ、立派な指導医の元に腕を磨け専門医の資格も取れる病院は少なくないので口惜しい。
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なお②に関してですが、形成外科の黎明期の頃、まず整形外科や耳鼻咽喉科、外科などから始めて、途中で形成外科を学びに行き、3年以内にその施設を離れて自分がチーフとしてもしくは開業して形成外科・美容外科を続けている先生は、昭和51年以降に卒後、形成外科に入局した先生たちとは区別して考えなくて良いのか?と思ってしまいます。