なぜ「偏差値50未満」でも一流の外科医になれるのか(続き)
天野先生の日大でも同じですが、当時の藤田の医学部の偏差値が今から比べたら随分低かったのは事実です。しかし偏差値とは最後に補欠が回って来ての最終合格者の偏差値であって、藤田の私の同級生の3分の1位はなかなか優秀だったと思います。
それは東海地方は私立の医学部が藤田と愛知医大の2つしかなく、前年度に愛知医大が新聞沙汰になる醜聞を賑わせたのと、当時は国公立の受験は年1度しか出来なかった関係で、愛知・岐阜・三重・静岡西部の国立医学部受験生の滑り止めに藤田がなっていたからです。
なお、『こんな人が医師になって大丈夫??』と思える人も少なからずいましたが、後に留年の上で退学となっています。
入学後の私はアニメ部とテニス部に入り色々励みましたし、遊び上手な級友に同行して、遊びとはこういうものか?と体験も積ませて貰いました。
しかし、天野先生も「医学部に入学してからの私は一生懸命勉強に打ち込みました。」とありますように(画像クリックで拡大)、私も医学部3年から全て医学系の講義と試験だけになる際、もう勉強に専念すると決意しましたから、1学期の期末試験は全勝できました。全勝者は9名でした。以後卒業まで勉強中心の生活を送りました。5、6年生になると進級判定とは関係ないそうでしたが、約2週間隔で医師国家試験模擬試験が土曜の午後に課せられました。私は5年生の9月に内科の“代謝・栄養”で初の学年1位となりました。この事をどう捉えるは各人各様でしょうが、当時25歳になっていた私は『やってみて明確に結果が分かる成功体験が自分には絶対必要』と導き、今後この模擬試験にも頑張ると決意しました。その後の5年生の時は、この模擬試験で連続1位~落ちても3位で結果は掲示されていましたから、級友が「(進級に直接関係ない試験で)何でそこまで頑張るのか?」と訊くので、「自分を試しているだけだ。」と答えていましたが、この言葉通りでした。この体験は私の後の人生に繋がって行ったものです。
一昨年、藤田学園から新しい大学病院を建てるので寄付のお願いの郵便が届きました。私は医学部卒業後は藤田とは完全に縁が切れていますが、『今の私が在るのは藤田時代があってからこそ!』との思いは相当強いので、100万円の寄付をしました。