藤田医科大学の医師国家試験対策模試

前ブログの続き)藤田医大は2年生まで教養科目の講義が多く、私は「進級の単位さえ取れば良いや」と余興に時間を費やしましたが、3年生になって全て医学の講義になると勉強に専念し、7月の1学期の定期試験は全て合格点(60点以上)を取り、入学して初めて全勝となりました。この時、120名ほどのクラスの中で全勝は9名でした(順位は非公開)。以後の定期試験は全勝とならない時もありましたが、ずっと勉強中心の生活を続けました。

そして5年生になると約2週間間隔で卒業直前まで、順位を1位から最下位まで公表する医師国家試験対策模試を課されました。

私の学年は年間の学費が280万円で私大医学部としては高くなかったので東海、旭丘、滝高校卒などの秀才が結構入学していました。そのため模試でもトップクラスに入るのは大変で、私は9月にやっと代謝・栄養で1位になりました。そこから自分を試す気になり更に勉強しますと、血液と神経で首位を2回キープ、中毒は次席外科的診断法は返り咲きました。しかし脳・脊髄~肺(1)では3位に落ちますと、得意分野だっただけに大いに反省しました。試験の前日、慢心して家でくつろいでしまったからです。その後は記録映像『 TOTALER KRIEG 』を度々視聴し直し、全力で勉強しました。藤田医科大学 医師国家試験対策模試

それで1週間後の脳・脊髄~肺(2)で首位へ返り咲き、その2週間後の心臓~ヘルニアは期間が有った分、渾身の努力で、2位に10点差をつけての圧巻で『 TOTALER KRIEG 』の成果を出せました。そして冬休み明けの総合試験では同点1位となりました。
ところが6年生になると1位が難くなりました。当面は5月の婦人科だけです。藤田医科大学 医師国家試験対策模試 理由は①本来は卒業できたはずの先輩が2名いて、他の先輩も6年生を2回やるのですから試験に強いのです。②中欧史研究に更に惹かれる出来事が5月と10月に在って、そこからやはり精神科医になろうかと考えるのに時間を割いてしまったからです。

しかし正月明けてあと3か月で医師国家試験(我々の時は、4月の第1週目の土日)と思うと、藤田での模擬試験では『やはり1位を取りたい!』と1秒も惜しんで勉強するようになりました。そして3月7日の医師国家試験模擬試験の最後の総合試験で有終の美を飾りました

卒試も優秀な成績で卒業確定し、感無量でした。卒業式で藤田学長から卒業証書を手渡されるとき、5月の体育祭での記録映画のことで「去年ビデオを返してもらった時の手紙で、レニがどう説得されて監督を引き受けたかの経緯を君に教えてもらったよ、ありがとう。卒業おめでとう。」と言われたときも内容が秘話だけに泣けて来ました。

卒業した後、4月初めの国家試験までの期間は『自分は合格!』と達観していたので、試験後は直ぐ九州に戻る必要から名古屋の馴染の車屋で愛車のバンパー上の色変え塗装、その色味が少し違うと差額を払って塗り直し、それと気持ちの整理として藤田学長からお借りしてダビングした記録映画鑑賞をしては歴史書を程々読んでいたので、医師国家試験の本番は自己採点で73.4点(か74.3点と記憶)に留まりました。良い方とは思うのですが、全国の医学部卒業生と比して、これが特別良いのか大した程ではないのか知りません。60点以上取れば同じ合格です。私にとっては藤田での成績が全てでした。

以上、前ブログはクローラ―が来て検索表示されてアクセス数が多いのですが、見ている人は時期的に医学部受験関係者や藤田医大関係者が大半と思うので書きました。高校を1年生の6月以降は自宅では哲学と社会学と西洋史での探求だけで、ほぼノー勉で卒業し、浪人中も読書と思索の日々を続けた後、漫画家になろうと投稿を続けたけれど入選できず、2浪の11月から駆け込みで医学部受験し、唯一藤田だけ合格した学生のその後の話です。