日本美容外科学会をひとつに(佐藤兼重先生)
続きですが、本来ご出席予定だった元北大形成外科教授の大浦先生の代わりに会長の千葉大形成外科教授でこの学会の会長、佐藤兼重先生が代読されました。概要は下記でした。
~~~2つの美容外科は大局的観点から合体すべき~~~
日本形成外科学会が設立された昭和32年、オルガノーゲンによる豊胸で死亡事故が続き、新聞に「豊胸術で人殺し」との記事が載った。
そのため厚労省の後押しで東大整形外科三木教授、東京警察病院大森清一先生、慈恵医大高橋教授が中心となり日本形成外科学会が設立された。
しかし各大学に形成外科を新設する時に問題が生じた。大森先生、丹下先生は美容をやらない形成外科は本来の形成外科ではないと主張した。一方日本の外科系の教授たちは美容外科は医療ではない、美容は大学で教える医療ではないとの考えであった。そのため大学に形成外科を新しく新設する際、美容外科手術は標榜することは出来なかった。設立する許可する側の意向に完全に押されてしまった。
そこに国際形成外科(IPRAS)から日本の中で当時唯一存在した日本美容整形外科、十仁グループに、お呼びがかかった。昭和47年大森清一先生はIPRASの地域理事をしていたのでこの事を知り、「十仁グル―プは形成外科のトレーニングを受けていないのでIPRASの基準に当てはまらない。」と異議を唱えた。その後、国際形成外科の会則に合った美容外科学会を設立し矢継ぎ早に1年に6回、美容外科学会を行なったのである。ここに2つの美容外科が出来たのである。
そして当時の日本医師会長武見太郎先生と梅澤先生、古川先生の働きかけで昭和53年10月美容外科が一般標榜科目になったのである。
この間、私(北大:大浦)と(東海大の)長田・谷野先生がが十仁の梅澤先生とお会いし合体を協議したことがあったが、当時は時期尚早となった。その後、波利井先生と伴に形成外科教授との懇談会をし2つの美容外科の打開策をについて話し合ったことがあった。ところが驚いた事に大学の形成外科の教授の半分くらいが美容外科の重要性を認識していなかった。そこで波利井先生は東大に美容外科を標榜し驚かせた。それを機会に次第に各大学の形成外科の教授たちも美容外科の重要性を認識する人は多くなったのである。
・・・私(木村)の知るところでは・・・
①日本形成外科学会設立とは昭和32年の「豊胸術で人殺し」等の理由も後押しだったかも知れませんが前年の昭和31年に東大整形外科三木威勇治教授主催の「plastic surgery研究会」として出来たものが昭和33年に改称されたものす。
②「当時唯一存在した日本美容整形外科」とありますが、十仁グループの学会には「外科」は付いて無く、「日本美容整形学会」と名乗っていました。
②「国際形成外科の会則に合った美容外科学会を設立」これは○○○○研究会ではないでしょうか?私が聞いているのは「日本整容形成外科研究会」の名称で昭和52年設立です。
②昭和53年の美容外科の標榜に尽力したのは武見太郎先生と梅澤文雄先生ら十仁学会グループです。当院の安見正志先生も当然、加担されています。ここで佐藤教授が千代田クリニックの古川正重先生の名前を挙げられたのは美容外科が一般標榜科になると十仁グループより素早く(結果的に僅かに早く)「日本整容形成外科研究会→日本美容外科学会」と名称変更した事からと思います。平成8年の上野冬生会長の時の総会で古川正重先生ご自身の御言葉として私はそれを聞いた記憶があります。