名古屋形成クリニック:上敏明先生(最長の師匠)
中島助教授が「(美容外科の見学をしたければ)上敏明先生のところに行きなさい。」と言われ、医学部5年の時、原病院および系列のジュノクリニックに見学に行き、上先生にお会いしました。
ただ実は私は医学部2年の頃から、上先生を知っていました。なぜかと言いますと母校の形成外科は当時、中島先生と上先生の2人しか形成外科医は居らず誰が誰だか判別できたのです。自分の形成外科の入局も念頭に置いていたからでした。
原病院で上先生から見せて頂いた最初の手術がabbe法で、その再建法に何かもう感動してしました! しかし当日午後見た「隆鼻プロテーゼま」を見た際は、何か吐き気を感じる様な「嫌悪感」を感じた事は事実でした。
上先生は気さくで良い先生で、何回かお会いするうち師匠として仰ぎたいと思いました。そして上先生の方から「そのうち原病院が形成外科認定施設になりそうだから、君も卒業したら直接、僕の下に来ないか。外科系研修は保健衛生の第2病院でやれば良いよ。その方が最短コースだ。」と言われ、数日悩みましたが私は「分りました。先生に下駄を預ける気で頑張らせて頂きます。」と決意を述べたものでした。
これは結構異端な決断だったと思います。しかしアニメ部員で時々漫画を描いていた私は卒業後に直ぐにでも美容外科をやりたくてたまらなかったのです。芸術運動という社会思想的な捉え方でもありました。当時の私にとって『整形外科と形成外科は再建外科としてひとくくりに出来るが、美容外科は精神外科だから精神科に通じる。手術という技術を駆使して人の精神に影響を与える分野をやりたい。それは漫画家が漫画を通じて読者の心に感銘を与えれば本望と思うのと同じ。』そういう意味で美容外科に渇望していたのです。結構独自な発想での美容外科への志向です。最初に形成外科を専攻した先生が後に、その延長上にあるものとして美容外科を捉えたのとは大分趣が違っていたと思います。
けれども卒業前の2月に、何と!原病院は形成外科認定施設の許可が降りなかったのです。美容外科の比率が多すぎるという理由でした。
その後紆余曲折があり、私は整形外科入局で将来美容外科をやる選択となりました。
それでも上先生とはずっと縁がきれず、日本形成外科学会雑誌の送付先は上先生の名古屋形成クリニックで続いています。