個人の幸せの追求 VS社会への貢献

個人主義と全体への連帯表題は今の日本においては安藤美姫の件からも前者が優先すると思って良いでしょう。
私は50代なので旧弊な思考も持ち合わせていて、昔は「滅私奉公」「七生報国」(七度生き延びて国に報いよ)と言われた時代があって、この思考も尊いと思うところがあります。しかし個人が良しと思って犠牲になるのは、その個人だけに留まらず、他人にも犠牲を求める社会規範を創る事になるので、成熟した資本主義の国では退けられる考えと思います。 ただ、古い言葉ですが後進国や中進国と呼ばれた国がモーレツなスピードで発展する際に指導者も自己犠牲的に生き国民にも自己犠牲を強いて駆け上がって来た歴史があります。日本や独逸がそうです。ですから自己犠牲は必要な時もあるし、そこには慈しみがあり美しいとも言える事もあると思っています。ただやはり現代はこの立場に居るのは間違いです。
では、「皆が個人の幸せの追求をしたら利己的です、誰が社会への貢献をするんですか?」と聞かれましたら、私は、「実は皆が意図せずとも社会への貢献をする事になるのです。個人の幸せの追求と言っても個人と個人の間に隔たりがあると伴に全体への連帯があり、皆の総和で意志と表象としての世界が実現するのです。」と答えます。
上記「隔たり」と書きましたが、国や集団の権威に対して個人の自由と権利を尊重する立場が個人主義です。個人主義は利己主義とは異なり、自分も相手もその人格を尊重するもので、集団主義の対立概念です。
私は20代の頃に思っていた事ですが、集団主義の世界に美容整形は馴染まないけど、個人主義の世界に美容整形は有って構わない。美容整形は己を見つめ直す、秘密、孤独、葛藤、集団からの離脱・・・美容整形は形から入って精神を変える。精神科が精神内科なら、美容整形は精神外科の一部門か。・・・昭和の時代に美容整形を志向した私は何とも仰々しかったものでしたが、精神科の延長or芸術運動として美容外科を捉える私の世界観があります。